こころと身体のつながり 3

この方法で生まれた子どもたちは、心身ともに健康状態が抜群であることが判明しています。


・・・わたしも最近、そんな子どもをひとり診たことがあります。


ぬるま湯をいれた浴槽のなかの母親から父親がとりだし、父親が適切な時点でへその緒を切った子どもです。


その両親がわたしのところにきたのは、子どもの健康状態が良好であることを確認するためでした。


小児科に行って水中出産のことを説明するのがめんどうだったらしいのです。


ルポワイエ博士はシンシナティのわたしの治療室に2度ばかり足を運んでくれ、わたしたちはすっかり意気投合して、楽しい時間をすごしました。


めったにないことでした。


もうひとりのお産の名人はヘンリー・M・トゥルービー博士です。


その著書『うぶ声』は出産について書かれた本のなかでも名著といっていいのです。


こころと身体のつながり 2

わたしは平手打ちが理想的なやりかただといっているわけではありません。


1950年代の半ば、フランスの著名な産科医、フレデリック・ルポワイエ博士がアメリカで分娩法の講義をしたことがありました。


ルポワイエ博士はわたしの年来の考えがまちがっていなかったことを裏づけてくれました。


博士がいう正しいお産とはつぎのようなものです。


母親がわからの脈がとまるのを確認してから、へその緒を切る。


切ったら、すばやく赤ん坊を首までぬるま湯につける。


もとの環境・・・


つまり子宮の環境を思いださせて、リラックスさせるのです。


つぎに、両手で赤ん坊の尻を支え、ゆっくりとぬるま湯からひきあげていきます。


赤ん坊が緊張するようなら、またぬるま湯にもどす。


ひきあげても緊張しなくなるまで、それをくり返します。


そうすれば、赤ん坊は恐怖で泣きわめくこともなく、空気というあたらしい環境に自然になじんでいくのです。


こころと身体のつながり

出産のときにトラウマが生じる比率については正確なデータがありませんが、わたしの経験から見て、その比率はかなり高いといわなければなりません。


出産は複雑きわまる自然のいとなみのひとつです。


胎児は産道を通過するときにぎゅつと圧縮されてねじれ、つぶれたようになっています。


・・・そして、うぶ声をきっかけにして小さく縮んだ姿勢がゆるみ、全身の骨組みがリセットされます。


この国がまだ訴訟に夢中になる以前は、生まれた赤ん坊の足首をつかんでもちあげ、尻を思いきりバシーンとたたくのが標準的なとりあげかたでした。


その一発で赤ん坊が勢いよくオギャーと泣き、吸った空気が全身をめぐるようになるのです。


いまでは、そんなことをしたらまず訴えられます。


産科医は尻に平手打ちをくらわすかわりに、両手の親指で赤ん坊の足の裏を軽くたたいています。


それでも多少の効果はあるでしょうが、平手打ちの効果にはくらべようもありません。


商業化進むスポーツ 2

テレビ各局のほうからみれば、全国フットボール・リーグと提携することは、自慢のタネになりました。


そうなるとネットワークのスポーツへの影響力は強まり、これを支配し、操作することもできるようになりました。


たとえば、スポーツのスケジュールに対するテレビ局の介入、コマーシャルのためのタイムアウトや、2度のキックオフの要求などがそれです。


こうしてスポーツの商業化はいよいよ進行してゆくのです。


商業化の点では、大学の場合も同様でした。


しかもネットワークにますます財政的に依存していきます。


たとえば、ペンシルベニア州立大学の場合はひどいですね。


1978~79年のシーズンに、同大学のフットボール試合がABCによって3回中継放送されましたが、それによる大学の収入は200~300万ドルに達したといわれます。


・・・したがって、巨額の収入をあげる運動部の学内における勢力が強くなる半面では、大学本来のアカデミックな活動は犠牲に供されることになります。

商業化進むスポーツ

支出の面でみると、たとえばフットボールでは、テレビ中継のため、プロチームや大学に対して1978~81年の3年間に、年平均1億8200万ドルがテレビ局によって支払われています。


これに対し、1963年には、わずか1400万ドルにすぎませんでした。


他方、収入の面ではスポーツ番組のCMから3局とも年間4~5億ドルにのぼる収入をあげています。


1976年の場合をみると、ABCはモントリオール・オリンピックを含めて2億ドル、CBSとNBCはそれぞれ1億ドルの収益をあげました。


スーパーボウルの場合だと、CM1分間で、35万ドルの収入がころがりこみます。


・・・したがって、テレビとスポーツの団体とは特殊な関係を持っているのです。


たとえば全国バスケット協会(NBA)はCBSと、全国大学陸上競技連盟(NCAA)はABCとそれぞれ専属の契約を持ち、また1980年のオリンピックはNBCによって独占されました。


フットボールのコミッショナーは1978~81年にかけて、ネットワークから6億ドルの資金を集めました。

テレビからの悪影響 2

ここでいう「遠心的文化」とは、テレビという名の電子メディアによって、人びとの情報能力がますます遠くへ拡がっていく一方では、彼ら自ら住む地方の状況には無関心になっていく傾向のことをいうのです。


今日のテレビによる大量社会では、


「地方自治や地方的忠誠心とか、草の根は弱くなる」半面では、「権力と関心は遠い権力の帝国的首座にますます流出するのである」(カンドー)。


次に、最後にテレビとスポーツの関係に触れておきましょう。


アメリカの「ビッグ・スポーツ」といわれるフットボール、野球、バスケットボールなどは、テレビと互いに持ちつ持たれつの深い関係にあります。


たとえばアメリカで最も人気の高いフットボールの場合、プロと大学を含めて、テレビ中継は1971年の年間800時間に対し、1978年には2200時間と、着実に増加しています。


したがって、ネットワークの収支に占めるスポーツの比重も大きいのです。


テレビからの悪影響

たしかに「セサミ・ストリート」のような、誰が見てもよい番組はあったかもしれません。


しかし、これは例外にすぎません。


暴力はドラマばかりでなく、プロレスのような格闘スポーツもこれに加わります。


「このような現象は、明らかにベトナム戦争にまで遡ることができる」として、カンドー教授は、「アメリカ外交政策の非人間性は大量文化に持ちこまれ、その上に反映された」と述べています。


・・・こうしてみると、


「もはや結論は不可避だろう。テレビの全体的影響は、とくに若年者に対し、破壊的だ。


多くの教育者や社会学者によれば、数少ない利点も、欠点のために小さくされてしまっている」(カンドー)。


・・・ほかの評論家は、これとは別の観点から、


「平均的北アメリカ人は、情報ドーナツの穴のなかに住んでいる。


彼はテレビによって発生されつつある『遠心的文化』に集団加盟している」


・・・と主張しています。

地域レベルの国際化

フィリピンやタイなどの、いまだ生活水準の低い途上国の女性たちは、少しでも家計を助けようと、豊かな日本へ出稼ぎにきます。


もちろん、日本の農村の男性と結婚することは、いわゆる出稼ぎではありません。


しかし、見合いが成立して日本のテレビのインタヴューに応じている女性が、なぜ結婚する気になったのですかと聞かれて「お金持ちですから」と答え・・・


彼女の父親の感想が「娘はお金持ちと結婚するのですからきっと幸せでしょう」と話しているのをみるにつけ、日本人男性と結婚するアジアの女性が、本当に人生の伴侶を選んだのか、それともお金を選んだのか疑問が湧いてきます。


なにより、「この人が素晴しいから」とか「この人が大好きだから」という答えが返ってこないことが気がかりなのです。


親元に対して現地でいえば何年もの給与額に当たる「持参金」なり支度金を払っている事実も、女性を「もらってくる」という傾向が強いことを示しています。


すでに、日本人の農業青年と結婚して、子供を産み、地域の暮しに定着したといえる女性もいます。


結婚相手の理解とやさしさと家族や近隣の人びとの配慮がなにより日本での生活への適応をうながす大きな要因となっています。


適応過程で忍耐も必要です。


女性観の再考 2

再考しなければならないのは女性を蔑視する地域の男性文化です。


そこに気づくことなく、「嫁」不足の解消のために日本人女性をあきらめて・アジアの女性をもらってきても、地域の再生は可能となるでしょうか。


アジアの女性をもらってきて「嫁」としてあてがうやり方が実は、その地域で暮している日本人女性の心には決して受け容れやすいことではないことを、少なくとも、そのあっせんに力を入れている役場の職員は気づいていなければならないでしょう。


現在その地域で暮している女性たちに、このやり方についての本当の気持ちを聞いてみる必要があります。


日本人女性がだめならアジアの女性をもらってくればよいと考え、そうしはじめた男性とそう努力している役場を地域の女性たちはどうみているのか、それが大切なポイントです。


なぜなら、アジアの女性を嫁にもらってくることは、日本人女性が今までのように考えられ扱われていることになんら変更をもたらさないからです。


女性観の再考

この女扁のつく4つの言葉は、男性に従属し、家にしばられる女性の扱われ方を示してはいないでしょうか。


もちろん、このような女性観は農山村に固有のものではありません。


しかし、農山村では、それがより顕著な形で出てきやすいのです。


「嫁」不足問題を本当に解消しようとするならば、その手がかりの一つは、農山村から女性たちがなぜ去ったのか、農業青年との結婚をなぜ望まないのかを聞き出してみることです。


自分を一人の自立した人間として扱わず、男に付き従うものとしてみる地域の文化こそが若い女性からその地で生きていこうとする気持ちをそいでいるのではないでしょうか。


はっきりものをいう女、男より才知のすぐれている女、屈辱的な性を拒否しようとする女、経済的にも自立して生きようとする女・・・


そういう女性は、長い間「優越」してきた男の文化を揺がします。


男の自尊心を傷つけ、男のメンツを失わせ、男が占めてきた社会的地位をおびやかすのです。


もちろん地域を去った若い女性が、みなそう考えたわけでもないでしょう。


しかし、もし、その地にとどまっても自分の可能性を拓いていくことができそうだと思え、その地で共に生きてみようと考えられる男性がいたならば・・・


その男性が農業を生業にしようとも、そこが条件のめぐまれない農山村であっても、あらかじめまっとうな結婚相手のいないところと考えて去っていったでしょうか。